世界が一つ解けた朝だった。
 小鳥の鳴き声もなく目を覚まし、寝床から起き出して障子を開けるより先に濃はそれに気付いていた。細くつくった隙間から覗く庭は真白く、夜のうちに降り積もった雪はまだほとんど完璧な姿ですべてを抱き込んでいる。空気は色を失くして空はぽかりとして、太陽の光は低所からでもまんべんない。まるで時が止まっているかのような、繊細で深く緊張感を孕んだ光景だが、濃の吐く息が確かに白くかたまってのぼっていくのだから立ったまま夢を見るには少し間が抜けている。ただ静かで、しろく、とりわけ美しい。
 木枠に添えた手が冷えてしまったので濃は一度障子を閉て、ほんのりと熱を残した室内できっちりと身支度を整えてから再び、今度は障子を濃のからだ幅開いて縁側へ出た。厚く仕立てられた布を通しても板張りの冷たさが足の裏に刺さって背筋が伸びる。いちばん下から中心を突っ切っていちばん上、頭のてっぺんまでぴしりと通る。それから縮こまりそうになる背を意識してまっすぐに保って、一歩二歩、濃は注意深く庭先へ降りた。庭の中央へと踏み出すたび、足の下で細かい雪が鳴る音が耳の中で転がる。からだはしっかり思うとおりに動いているのに、肝心の思考のほうが未だ惚けていて、頭の半分程後ろを遅れてついてくるみたいだ。
 夢みたい、と濃は(おそらく)思った。
「……風邪をひきますよ」
 光秀の、言葉を発する前の一瞬の間が濃は好きだ。躊躇いでも気後れでもない空白は正しく何でもなくて、望めば何の意味でも見付けられる。独特で、きっと多くの相手を苛立たせるものだろう。
「おはよう」
 おはようございます、良い朝で、と光秀は答えた。薄い唇を薄く開いて。光秀はいつでもあまり大きく口を開けない。しかしそのことで濃はこの青年との会話に不都合を覚えたことはないし、不快に感じたりもしない。色素の少ない唇は不健康そうに見えるが、すっと見事な弧を描いている。光秀は全体に白っぽいので雪景色の真ん中にぽつんと立っていてもさほど寒さを感じていないように見える。
「寒いわ」
 私は、という意を込めて言うと光秀は案の定他人事のように顎を動かした。
「そうですか」
「ええ……」
 冷たい男だ。温度というものがないのかしら、と濃は疑ってみる。見上げた先から下りてくる視線は淡々として、どこか暖かいところで丸くなって震えている小鳥たちの羽より静かだ。この庭には音を立てるものがとても少ない。松の木に纏わった雪がゆっくりと融けるのが濃にはわかる気がするし、光秀には濃の血の流れるのが聞こえているかもしれない。ふう、とかじかんだ唇の合間から弱い息が出た。
 風邪をひきますよ、と光秀がまた言った。初めと変わりない音程で、まだ何度でも幾らでも言えるだろうと予感させる調子で。濃はこの言葉をもう既に飽きるくらいたくさん聞いているように思えて(思い出して)大人しく頷いた。事実だ。今朝の空気はひどく冷えている。
 でも、青年の白い髪が陽光にゆるんでいる。
「私が風邪をひいたら、お前は心配してくれるの?」
「ええ」
 濃は自分の両の手を口元まで持ち上げ息を吹きかけた。ほんのわずかばかり指先が温まって、その一瞬が過ぎると余計に冷える。擦り合わせた手を、濃は丁寧に、控えめに、けれど逃げられない決然さを伴わせて光秀の左手に触れさせた。男の長い手の造りを、硝子細工より壊れやすいものにするように慎重に包み込む。血潮が巡る速度で少しずつ、少しずつ力を重ねていく。
 まるで時が止まっているかのようだ。決して逆向きには行かないものだから。
 しかし濃の心臓は留まることなく打っていて、光秀の指先でもその色の知れない血液がするする流れているのが皮膚と皮膚の向こうでわかった。だから濃は安心してそっと両手を離した。割れてはいても壊れてはいないものを壊さないように。……帰蝶、と光秀があくまで静かに彼女を呼んだがそれよりぜったいに早かった。
「私もお前が風邪をひいたら心配するわ」
「ありがとうございます」
 光秀の唇から漏れる吐息が、淡く白く掠れて消える。瞬きする間のできごとだ。
 濃は軽くからだを抱いて足先を縁側へ直した。
「ではね。そろそろ上総介様が起きてこられるでしょう」
 庭はまだあちこちに静寂を保っていたが、その間でだんだんに雪が光が広がっていく。光秀はましろい空白を置いて微笑んだ。新しい時が綻ぶ。ほどける。濃も答えた。
「……どうぞ、公にも良い朝を」







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お題:まよい庭火
20110106
 
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