ぐーぱーぐーぱーぐーぱー
 ぐっぱっぐっぱっぐっぱっ
 ぐーぱーぐーぱーぐーぱー
 ………………
「スザク? どうしたんだ?」
「うん?」
 右手を顔の前に持ってきて、握ったり開いたり、握ったり開いたりしていたスザクは、声を掛けたことでようやっとこちらを振り向いた。それはごくちらりとで、そしてまたすぐ元に戻ってしまったが。特別驚いた様子は見せなかったから、ジノが室内に入ってきたこと自体にはちゃんと気付いていたらしい。単に構わなかっただけで。……別に感激して歓迎して両手を広げて飛び込んでこいとは言わないが(してくれたらジノこそ感激して歓迎するけれども)、振り向くくらいしてくれたっていいのになあ。思いながら、しかし言わずにジノはスザクの座るソファの背もたれに手をかけた。まだぐーぱーを繰り返しているスザクの横顔を斜め上から覗き込む。
「右手がどうかしたのか? 痛むのか?」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど……ちょっとね」
「ちょっと」
「うん」
 スザクはなおも数度握ったり開いたりをしてみてから、それでまあ納得したのか小さく息を吐いてその手を下ろした。下ろした手がソファの縁を撫でる。そこに多分意味はないので、ジノはああ惜しかったかなと少しばかり悔やんだ。手の届く距離にいたら撫でてくれたかもしれないのに。ソファなんかじゃなくってジノを。……犬みたいに(でも別にいい、と思っている)。
 スザクは意味もなくソファを撫でこ撫でこしながら、ジノを見ないままで言う。
「なあジノ。もし僕が崖から落ちそうになったら」
「スザクが? 崖から?」
「ああ。そうしたら君はどうする?」
 スザクが崖から落ちそうになったらどうするか。――それはまったく、スザクのソファを這う手よりか意味のない質問に思われた。だってありえない。サルも木から落ちるとかいう以前スザクに教えてもらったニッポンのコトワザよりもっとありえない。ありえないし意味もないが、それでも訊くというのはつまりスザクには何らかの意図か理由があるのだろう。だがジノにはそのどちらもわかりはしないので、結局素直に答える外はなかった。どっちにしたって変わらない。
「助けるさ」
 当たり前だろう。
 音にはせずに、含ませるだけの声音で言えば、スザクは曖昧かつ生真面目にうんと頷いた。そうだろうね。答える声はわかっていたと言っていて、それなのにどうして尋ねるのか、それこそジノにはわからないし尋ねたいところだ。スザクは何が聞きたくて、ジノの答えはスザクの求めるそれだったのかどうか。違っていたらちょっと悲しい。寂しい。だが、やり直していいと言われても答えは変えられない。解法も計算も確かめようのない当たり前で簡単でわかりきった答えだ。それは多分スザクにも。
 スザクはソファを撫でていた手をいい加減で離して、空いていた左の手と合わせた。ジノはまた惜しいと思う。早くその手の届くところへ行かないと。
「この間、崖じゃないけど高いところから落ちそうになって。僕じゃなくて。一人が足を滑らせて、もう一人がそれを助けようとして。結局僕が引っ張り上げたんだけど」
「二人を?」
「そう」
 ふわふわくるくるした髪の先がスザクの目元に影を落として、ぱっちり開いてどこかを見ている緑の目は奥深い森の色に似る。
 瞬きもしない。
「それを思い出してた」
「…………」
「それだけだよ」
 言葉を吐ききって、スザクはゆるく頭を反らした。背もたれに頭を預けて、見下ろす角度のジノの目に首筋が晒される。ジノからしたら小さい頭に薄い首筋は、どうかすると子どものようで、実際スザクが年上だと知ったときには随分と驚いた。スザクの方ももともと丸い瞳をさらに真ん丸くして零れんばかりだったが。あれはめずらしくてかわいかったと思い出せばついつい頬と唇がゆるんで、そんなところばかり目敏いスザクはぐいとさらに首を反らしてジノを見上げる。ジノはかわいいなあでも痛くないのかなあと思いつつ。
「なに?」
「いや。私も少し思い出すことがあっただけだよ」
 何とはなし、くしゃりと潰されて散らばったスザクの髪に触れてみる。ジノは見た目よりもっとやわらかい髪を指で梳きながら、そう、と閉じられる薄いまぶたを見ていた。そっけない声と態度がしかしどこかしらやわらかく感じられるのは、好きにすることを許されている指先のせいだろうか。絵画のなかの天使のような、と言ったら思いきりあきれた目を受けたおさまりの悪いスザクの髪は、まあ実際のところ彼はちっとも天使のようではないのだが(戦場では死神の名を持ってさえいる)、それでもジノの指と絡んでとけるようで、こうしていたずらにもならずにただ触れているだけのことがなのに紛れもない喜びだ。ジノをひどく嬉しくさせる。
 スザクはそのまま眠ってしまうんじゃないかと思えるくらいにいとけない顔をして、ジノの指をすっかり受け入れている、ような顔をしている。静かな呼吸が空気にゆったりとまざる。
「いつもと逆だな」
「そうだね……」
「気持ちいい?」
「うん」
 上げたままのあごで素直に肯定して、そんな苦しそうな体勢でもスザクの呼吸はまったく乱れることがない。完璧に健やかで、間違いなく息をしていて、そしてとても密やかだ。こんなに近くにいるのにふいに見失いそうで、ときどきジノをあわてさせる。
「なあスザク」
 ん、と、鼻から抜ける相づちが返る。
「私がもしアーニャを助けようとして落ちそうになったら、頼むぞ」
「は」
「スザクがアーニャを助けようとして落ちそうになったら私が助けるし、私たちが落ちそうになったらアーニャが助けるからさ」
「ジノ。何を言ってるんだ」
「もしもの話、だろう?」
「…………」
 うっそりと覗いた緑が二つ、ジノを捉えて、栗色の髪がするりと指から逃げた。くるくる好き勝手跳ね回っているような髪はしかし引っかかったりすることもなく、涼しい感触だけを残してあっさりと離れていった。涼しくってちょっと温かい。
 起こしたからだを半分方振り向かせて、スザクは何とも言えない表情をしてジノを見た。スザクの内面は木々の葉が一枚いちまい、季節どころか日にも時にもよって違うように複雑で、おまけに顔面までばっちり鍛え抜かれた筋肉に覆われていてガードが固い。でも頬をつついてみればすべすべでつるつるでふにふにで、やはり子どものようなのだった。それも結構なこと幼い子ども。どうしたって甘やかしてやりたくなる。そして同時に苛めてやりたくもなるのがスザクは困り者だ。
「そんなことにはならないよ」
 大きな目でジノを見つめて、スザクはきっぱりと言った。言い切る口調で、声音はさらりと乾いて、風が吹いたら一緒に飛んでいくだろうくらい素っ気なかった。小さい口だなあとジノは思う。そこから紡ぎ出される声はいつも淡々として軽い。響きの違う帝国語はジノの耳に甘く触れて、また子どものようだと思わされた。何度も何度も繰り返して、その度ごとにジノはこの年上の同僚を甘やかしたり苛めてやりたくなるのだ。
 かわいいなあ。
 ジノはソファの背に手をついて、見上げてくるスザクに覆い被さるように長いからだを丸めた。編んだ髪が肩を滑る感覚がある。なに、と問うてくるのとは囁きの距離だった。
「撫でて。スザク」








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