ナイトオブセブン、枢木スザクは最近大型犬を飼い始めた。
 スザクはラウンジのソファにゆったりとは言い難い、でも彼らしいきっちりとした態度で腰掛けて、黒い手袋をしたままの手でコーヒーカップを口許に運びながら、逆の手は肩にやっている。アーニャも斜め向かいのソファで同じようにコーヒーを啜って、そうして多分無意識だろう内に動いている、スザクのこちらだけはなぜかはだかの右手を見ていた。今はからだの脇に置いてある携帯で、さっき一度記録を取ったばかりだ。日付と時刻の違う写真でも、似たような構図のものがもういくらもあるけれど。こんな記録なら増えるだけ嬉しい。
「あ。アーサー」
 ふいと音もなく現れたのはスザクの愛してやまない猫だ。エリア11から連れてきて、本国でもどこへ行くにも一緒……というわけではないようだけれど。アーサーはいつだって自由気ままだ。乱れた毛並みと尻尾がそれでもとても誇り高いのは、とびきりに愛されている証だと思う。
 スザクはカップをテーブルに戻して、愛猫にその指を伸ばそうとした。「アーサー。おいで」けれどまだスザクが少し上体を倒してカップから指を離しただけのところで、アーサーはいとも簡単に飼い主を裏切ってみせた。いたずらな尻尾が、スザクの指先をからかうようにふるっと振れて。
「……アーサー?」
「ああ、ごめん、アーニャ」
「ううん。いい」
 ひょいとひざの上に飛び乗ってきた熱は温かだった。きちんと世話をされている毛はふわふわとやわらかく、軽やかな動きからはちょっと意外なくらいにちゃんと重い。ああこれは生きているものだなとわかる。
 アーニャはそのまま座り込むアーサーの背中の毛を撫で付けてやって、反対の手で顎の下をくすぐってやった。そうすると猫は素直にごろごろと喉を鳴らしてみせる。閉じられた瞳がすっかり心地よさそうで、何だかアーニャまで眠たくなるようなにおいがする。空気かもしれない。
「さすが。慣れてるね」
「スザクも」
「え?」
 ぱちくり。と、正しくそういうふうにスザクは瞬きをする。まあるい緑の目が子どもみたいに驚いて、そうすると元来の童顔がいっそうあどけなくなって、たまらなく抱きしめてやりたくなる、といつかある同僚は言った。彼のそれは抱き潰すも同じようなことだけれど、その気持ちはアーニャにもよくわかる。スザクはかわいい。これも同僚の彼がいつもいつも言っていることだ。
 何のこと? と言うみたいに小首を傾げたスザクは、ややしてああとひとり頷いた。まったくの素直さで。
「アーサーはいつも僕には冷たいんだ」
「違う」
「え?」
 また。
 惚けるスザクに、アーニャは彼女にしたら丁寧に言葉にしてやった。スザクはアーニャの少ない言葉を拾って繋ぎ合わせるのは下手じゃない(どころかなかなか上手い)けれど、ときどきそれどころじゃない場所でどうしようもなく鈍い。言葉にするまでもないところにある、というならそれは間違いなく幸福の話だろうけど。そうなら同僚は多分とろける。どろどろのぐずぐずに。そう、なら。
「ジノ。スザクの指、すごく慣れてる。気持ちよさそう」
「え? あ、ああ……なんだ。ジノのこと」
 指摘されて、肩のところで黄金の毛並みに絡んでいたスザクの指がするりとほどけた。何の未練もなさそうに自然にひざに落とされた手は、たったそれだけの動きでも見とれるほどにしなやかだった。ブリタニア人とは違う色の肌とも相まって、何だか妖精でも捕まえそうに見える。今触れていたのはそんな不思議も幻想もない、もっと現実的でわかりやすくて誰にだって触れられるものだったけれど。触れることなら誰にでもできるはずで、でも本当にそうできるのは限られた者だけだ。今はスザクだけ、ということを、なのに多分本人だけがわかっていない。
 背中からべったりのしかかっていた報われない大型犬は、その指を追わえるように頭を上げた。
「スザクぅ。酷い。『なんだ』って」
 高い鼻を首のあたりにすりつけるようにして鳴く犬に、スザクはくすぐったそうに身をよじった。でも太くて長くてしっかりとした腕が、とっくにスザクのからだをソファとで挟み込んでいる。
「君があんまり静かだから、ちょっと忘れてた。いつもはあんなにうるさいのに」
「にぎやかって言ってくれよ。明るいとか。忘れるなよ」
「ん、こら。ジノ」
「スザクが悪い」
 言って耳たぶ(首筋でないのはラウンズ服の襟が高いからだ)に甘噛みをしかけるジノはとてもしつけが悪い。人間としてなら帝国最高水準の教育を受けているけれど、犬としてはまるで駄目だ。駄犬だ。名犬になれる素質はいくらでもあるだろうに……でも、もったいなくなんかはない。ジノはきっとしたいようにしている。忠犬では多分ある。
 だからアーニャも好きにすることにして、ひざの上で健やかで気持ちのいい呼吸をしている生き物から指を離して携帯を取った。
「それにしても、本当どうしたんだい。いやに大人しかったけど」
 できるんならいつもそうしててくれないかな。
 言いながら、スザクの指がまたジノの三つ編みに伸びる。
 記録。
「うん? いやあ、何だか眠たくなっちゃって。スザクの指が気持ちよくってさ。おまえ、なんかあったかいにおいがする」
「何だそれ」
「わかる」
「アーニャ?」
「だろ?」
 ジノはスザクの肩を抱き込んだまま端整な顔をアーニャに向けた。いかにもブリタニア的な美しさを誇る容貌には少しそぐわないくらいの、無邪気で元気いっぱいの笑みを浮かべて片手を上げる。
「アーニャもこっち来いよ。アーサーも。みんなで寝よう」
「ジノ? 何言って……」
「そうする」
 頷いて立ち上がったアーニャに、スザクは口を噤んで問い掛けるような目線を送った。それにもう一度頷いて、アーニャはスザクを真ん中にジノとは反対に腰を下ろした。アーサーは抱いたままだ。
「このソファでかいから大丈夫だって。ほら、スザク」
 まだ戸惑っているスザクの腕を、ジノがアーニャに回させて、アーニャはこてりと頭をスザクにもたせた。やわらかい薄桃の髪がスザクの胸にかかる。とくとくと、心臓の音が聴こえそうな気がして、聴いてみたくて目を閉じた。
 アーニャには甘い(とジノは言う)スザクはそれだけでもう動けなくなってしまったらしく。ふう、と落ちたのは諦めた溜め息だ。どうしたってやさしさに満ち満ちている。
「……ほら、ジノ、もっと寄ってくれ。君はとにかくでかくて重いんだってことを自覚しろ」
「やだよくっついてようぜ。ほらほらスザクももう目閉じて。眠いんだろ?」
「君って……」
「何?」
「何でもない」
「おやすみ、スザク。アーニャ。アーサー」
「おやすみ」
 最後にちらりと薄目を開けて見たアーサーが大きなおおきな欠伸をしていて、くわああっと開いたのどに、三人は仲良く呑まれてしまった。







3+7+6+ニャー
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