ぼんやりと丸く淡く闇を、払うというよりかそこにだけ特別に浮かべたような灯の中、客室に備え付けられた椅子のうえで、彼はまんじりとして見ていた。階下の酒場となった食堂から未だに上ってくる喧騒に、眠りにつく街から風が運んでくる詩人の唄と、彼自身の低い息遣い。そのどれもが届かない様子で、ただ。 見ている。 じっと。 雨上がりの濡れた大地に生えるみどりの髪が、じりじりと燃える炎に照らされて、生まれた陰影ごと揺れる。ささやかなバルコニーは少年とも青年とも言い切れない、中途の幾段かをうしなったまま階段を上ってきてしまった彼の、たったひとりぶんの静寂で満員のようだった。 ……声をかけられない。かけても届かないだろうと思うのは、わずかにも動かない彼の頭越しに、彼の見ている、二つの影が見えるからだ。夜に沈んだ街路にとけきれず浮かぶ影は寄り添い合って、判然としていないはずなのに誰だかわかる。わかると思う。 思わせるのもやはり彼だ。 瞳どころか横顔も窺えない位置にあっても、彼は『彼ら』を見ている、と確信めいて思わせられるのと同じように。重く厚ぼったい夜の帳と、音楽もなしに踊る火の見せる錯覚だと言えないはずはないのに。 「冷えるわよ」 届かなくても、とかけた、かけずにいられなかった声には意外なことに返事があった。 「大丈夫」 「……早く休んで、疲れとらなきゃ知らないわよ」 「うん」 「昼間寝ぼけたり、倒れたりしないでよね」 「うん」 「寝坊したらあんたの分の朝御飯も食べるからね」 「うん」 「…………」 大丈夫。 振り向かないままで頷き、繰り返された答えは彼を取り巻く静けさを破らないで響く。陽気な笑い声も切ない唄声も途切れずに聞こえてくるなかで、やはりただ『彼ら』を見つめ続ける彼が、そう答えることはわかっていた。本当には届かないだろうと思っていた。 かなしいとは思わない。 くやしいとも。 彼は大丈夫だから大丈夫だと言う、それだけのことだ。 「大丈夫?」 「うん」 「そう、じゃあ、おやすみ」 「おやすみ」 部屋を出て戸を閉めれば、揺るがない背中を照らしていた、ランタンのほのかな灯りはもう届かなかった。
ランタンと椅子
お題:カカリア |