ブナンザの屋敷はどこもかしこも立派で美しかったけれど、彼がいちばんに好きなのはいつだって父親の書斎であり作業場だった。勝手に入ってはいけないときつく言い含められていたその部屋に、父親に呼ばれて、あるいは並んで入るとき彼の小さな心臓はいつもいつもきゅっと縮んで鳴った。期待と畏怖と緊張と興奮とその他彼が父親に抱く何もかものおもいが、彼の小さなからだどこもかしこもを浮立たせた。心臓が息をひそめているのかそれとも耳がはしゃいでいるのか、どくどくいうのに何も聴こえないような、そんなふうな心地。
 彼はその日その時も、それに近い、でもそれよりずっと純粋にわくわくとかどきどきとかいった心持ちでその部屋の前に立っていた。先週この部屋の中から父親に借りた本を抱えて、その時のことを思い出しながら扉を眺めていたらそれだけでもっとわくわくどきどきした。彼のためにと父親が選んでくれたそれらの本はどれも多少難しくはあったけれど面白く、彼はすっかり読んでしまって、その内容についてこれから父親と話したり質問したり、それから父親の仕事の話なんかも聞かせてもらって、彼の話も聞いてもらって、それからそれから。
 彼は細工が特別派手なわけではなく立派な扉に背を預けて、父親の帰りを待っていた。本当は玄関で待とうかとも思ったけれどメイドたちに早く寝なさいと叱られるかもしれないし(その点この書斎のある辺りにはあまり召し使いたちは近寄らない)、ここはやっぱり特別な場所で、父親を待つのにいちばんふさわしく思えた。
 ああ、何から話そうか? グロセアエンジンについて? ヤクトについて? それとも? ……
 本で読んだことを思い返し、さらに父親が話してくれるだろう新しく深い知識を思うだけで彼はたのしかった。時間がどれくらい経ったのかもわからない。脚が疲れてきたから座ると、ふわりと毛足の長い絨毯がやわらかく彼を受けとめた。
 きっともうすぐ帰ってくる。
 わくわくもどきどきも収まらなくって、彼はあれやこれや瞼の裏に思い描いた。父親の造る飛空挺、彼の造る飛空挺、それに乗って空を駆ける日……父親の笑顔、誇らしげな口許、大きな手……



 そのまま、いつしかとけあった二つの夢にくるりとくるまれてしまったのを彼が知ったのは、翌朝ベッドでメイドに揺すられたときだった。「ファムラン様、ファムラン様。朝ですわ」「うん……」彼の頭を撫でていた父親の手が離れていくのを追って瞼を押し上げると、そこには、父親のよくやったという笑みではなくてメイドの怒りながら笑っている顔(彼女たちはとても器用だ)があった。
「あれ? 父さんは?」
「もう出られましたよ」
「えっ」
 彼はひどくがっかりしたけれど、メイドの声は朝にぴったりの清々しさだったから抗う隙もなくベッドから出されてしまった。そのまま着替えだ。メイドの手付きは素早くて迷いがなく、もちろん彼を逃がしたりはしなかった。
「父さん、今日も遅いのかな?」
「さあどうでしょうねえ」
 首元のボタンもしっかりとめられて、彼は息苦しさに首を振った。襟に手をやってなじませていたときにふと、やっとそれが目に入った。サイドテーブルの上に重ねられた本。「あれ?」違和感を感じて彼はいちばん上のものを一冊手にとってみた。「あ」
「どうかなさいましたか?」
「あ、ううん、何でもないよ」
 メイドの声に彼は本を元の場所に戻した。下に重ねてあった分もちらりと確かめると、やっぱりすべて昨日までのとは違う、新しい本に変わっていた。
「それでは朝食に致しましょう」
「うん。あ、卵焼きは嫌だよ」
 さあどうでしょうねえ、と、メイドは朝の光とともに微笑んで彼の手を引いたのだった。







てをにぎってにぎりかえされたひのはなし
お題:浮薄です
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