エアリス=ゲインズブールは、躊躇いも間違いもなくスラムの人間だ。それは胸をはって誰にでも言うことができるし、けれど別に誇っているわけでもない。ただそうだというだけのことで、実際、エアリスにはプレート上の暮らしというものはいまいち想像がつかないでいるから羨ましいとかそういう思いは抱きようもなかった。知っているのは神羅ビル内のあの冷たい壁だけで、プレート上というのは(神羅に組する者ばかりだという点で)それと等しい。
 十年と、いくらか。
 エアリスの持つ思い出はもうほとんどがあのプレート下のあたたかな家と母親とでできあがっている。……それは、ときどき、うすらさむい。すくってもすくえない木漏れ日のような何かを思わせる。もちろん、エアリスは二人の母親をそれぞれにそれぞれだけ愛していて、それは矛盾もなくエアリスを満たしていて、だから、どちらがどうというようなことでも決してないのだけれど。

 躊躇いも間違いもなくスラムの人間であるエアリスも、けれどたまには電車に揺られてがたごと、腐ったピザの上に顔を出すこともあった。買い物やなんか、どうしたってあそこだけでは回っていかない生活というものがあるからだ。真実それだけで暮らしていこうと思ったら叶うのかもしれないけれど、でも、エアリスにとっての、日常と言えるのかはわからない、それでも何がしかの一端がミッドガルにはあった。
 舗装されてビルに圧し潰されるのを待つ街路を歩きながら、エアリスはあの家をおもっていた。プレート下にあってもなお、この街よりよっぽどさんさんと陽が注ぐ。木と土と花と。そういう匂いがずっとしている。
 ……早く、帰ろう。
 プレートの上というのは当然下よりあの神羅本社に近く、すなわちそこに直接的に属する人間も多くなる。エアリスのことを知っているのなんかよっぽど限られた者だろうけれど、でもうっかり会わないともわからない。どこで会ったってついていくつもりなんか欠片もなく、また誰にしたって手荒なまねはできないのだろうけれど、それでも下ならずっと簡単に逃れる自信がある。
 あの角の犬のところにでも寄って行こうか。
 それともまわりみちしてあの猫の路地を通ってみようか。
 それとも。
 ……やっぱり、エアリスは躊躇いも間違いもなく、スラムの人間だ。まったく。確認して、そっと息を吐いて、吸って、それからエアリスはゆっくりと振り向いた。
 黒い、かげ。
 それは歩調をよどませることもなく、すんなりとしたシルエットのまま、すんなりとした動きでエアリスが止まった分だけ間を詰める。エアリスは唇を噛みそうになって、噛みそうになっていることに気付いてやめて、意識してきれいな呼吸に努めた。
 すぐ、二歩、三歩。他人なら近い、友人なら遠い距離にとまって、かげはやっぱりすんなりとして平板な声で言った。
「めずらしいな」
「なにが」
 眉が、寄る。どうしたって。
「あなたが、こっそり、あと、尾けてたこと?」
 唇もとがっている気がする。わかりやすい、不機嫌です! という顔。それはちっとも間違ってはないけれど、でも、こういうふうにしたいわけでもないはずなのに。こんな。こどもみたいな。
 男は少し笑ったようだった。
「それはめずらしくもないな」
「そうね」
 かげが男の顔に落ちている。傾き出した陽が背中のずっと向こうにあって、表情はよく知れない。笑ったよう、というのはだからそのとおりほとんど推測だった。雰囲気やなんかが、そういうふうにくずれたように思えた。
 確認はできないから、どことなくくずれていびつなまま、補修がきかない。
「君がこんな時間にこんなところを歩いていることが、だ。めずらしい」
 夜は、もちろんミッドガルにもやって来る。騒々しいネオンやビルの明かりが闇を払いはするけれど、夜が来ないわけではない。スラムでもどこでも同じことだ。でも、上より下のそれの方がエアリスには近い。当たり前に、ただなじんでいるというそれだけの理由で。過ごした時間の、その分だけの正しい重み。
 幽霊みたいな男だ、と思った。かげの上にかげを重ねた。動きは滑らかで確かな線を持っているけれども、それでもそう見えた。
 夜が、唐突に速度を上げる。
 エアリスは思い出したように踵を返した。早く、帰ろう。
「送ろう」
 声がした。聞こえない。





 ざく、ざく、土が鳴るのはたぶん空耳だ。むき出しのままの道はやわらかくブーツの底を受けとめて、なじんだ景色は夕暮れでも夜でもやっぱりこの身に近い。
 エアリスはほっとして、ほっとしながら、今度はさっき去ってきた街のことを追っていた。未練がましく。あっちではこっち、こっちではあっち、だなんて、とんだあまのじゃくだ

 エアリスは俯いてわらった。愚かしい自分を。

 冷たい壁と、かたい道と、がたごと、電車と瞬く灯り。静かなホームと、母と、それから、それから。
 覚えていることはいくつもあって、それらは今でもエアリスのそこかしこに残っている。そうして、きっと同じだけの、戻らないものたち。まぶたの裏が、ゆっくりくらくなる。
 ……感傷にようなんてばかみたいだと、そう、おもうのに。
 十年と、いくらか。
長いとか、短いとか、そういうことでなくて。ちょっと、おもっただけなのだ。わかっていてなおこんなに胸をひゅうとさせるから、だからエアリスはまだまだ小娘だとわが身を振り返ってうんざりする。

 空気までスラムらしくよどんだ(と言って上の空気がすんでいるなんてことはなくて、そこがミッドガルらしいところかもしれない)なかを、エアリスはゆっくり歩いた。
 もうすぐわが家だ。
 陽も、もうすぐ沈むだろう。闇がぐるりと世界の淵からにじんでいる。
 息を吸って、吐いて、それからエアリスはゆっくりと振り向いた。
 黒い、かげ。
 一歩踏み違えた景色のなかに、何よりすんなりとなじむ男。
「着いたわ」
「そうだな」
 エアリスは顔をしかめて見せたけれど、相手からそれが見えたかどうかはわからない。男は一足早く、夜にとけてしまっている。顔と、手ばかりが、ぼんやりと白い。
「それじゃあ、また」
「また、ね」
 苦みを込めて返したエアリスに、男は何も言わない。踵を返すかげ。
「送ってくれて、どうも、ありがとう」
 神羅の、タークスの、象徴みたいなダークブルーの背中がスラムの夜に呑まれるまで、エアリスはずっと見送っていた。すっかり見えなくなってそれから、唇がそっと動いた。幽霊みたいな男の……
 もしかしたら、ツォンは、笑ったのかもしれない。







せかいでいちばんとおくのりんじん
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