どこか遠くの町から吹いてきた風が気まぐれに、手許の本を四、五ページぱらぱら捲っていったことで呆けていた自分に気がついた。
 エアリスは手のひらより少し大きくて硬い、やわらかなクリーム色の表紙をした本を膝の上に開げてはいたものの、実のところちっとも読んではいなくて、まるで内容が頭に入っていなかった。目はぼんやりと紙の上に落ちていただけで、たった今何行目を追っていたはずなのかも分からない。脳みその皺には文どころか単語ひとつ挟まっていやしなくて、風で捲られる前までどこの章を開いていたのかも見失ってしまった。縁が日に焼けた紙面に黒いインクで打たれた文字が、ずらりと無意味に並んでいる。
 エアリスは顔を上げて周囲を確認し、どうやら誰もいないこと、見られてはいなかったらしいことにほっと息を吐いた。癖になっている動きで前髪に手が伸びる。乱れてもいないのに整え直すと、なんだか少し慌ててしまった気がしておかしい。別に誰に何を咎められる心配もないのに、けれど擦れてやや丸くなった本の角を指先で撫でて、もう一息。ふう。
 今回逗留する宿にはなんとなく具合の良いバルコニーがあって、あたたかげな風合いの椅子もあって、おまけに備え付けか前客の忘れ物か小ぢんまりと可愛らしい本が置かれてあったから、時間の空いたエアリスは午前中をひとり穏やかに読書でもして過ごすと決めたのだった。もしかしたらそう変わらない年齢の女性の持ち物かもしれない、本はありふれた恋愛小説で、あれこれ考えずにいるのにぴったりな気がした。日頃あまり本を読み付けないエアリスには起伏のないストーリーも新鮮に感じられたし、比較対象がないから本当にありふれているのかも判じきれない、少なくとも神羅やソルジャー、古代種は登場しない物語は忙しい旅の合間の空白にぽっこり入り込んでくる。……かと思ったのだけれど。
 年齢に比して恋愛経験というものがほとんどないエアリスからしたら、幸せな恋というのは形の凝ったお菓子みたいな感じがする。いいなあ、素敵だなあ、と思ってそれっきり。もちろん興味はあるし憧れもあるけれど、いつか自分にもこんな安全で甘美なものが訪れるなんて、想像だけでも摘まんだ指先からほろほろ崩れていくばかり。唇や舌で味わうなんて、できそうもないからどこまでも無色だ。
 エアリスにとっての恋というのは、二つしかない。
 そしてその二つはエアリスのなかでとても明瞭な意味を持っていて、たぶん他の誰にもそうであるように、エアリス自身にとってだけかけがえなく特別だ。今も、昔も、これからも。エアリスの時間が続く限り、たとえいつかの未来に違う恋がやってくるとしても損なわれることなく。
 閉じた本をそうとテーブルに戻して、読書を始める前に用意しておいたお茶を飲む。温くなった液体がのどを滑り落ちていくのが、この曖昧で鈍い時間にしっくりくる。
 風が静かに吹いて、知らない町の匂いがした。
 一つ目の恋が過去にエアリスにもたらしたものと、二つ目の恋が進行形でエアリスに見せようとするものは違う。彼らは実際(赤の他人だとは信じられないほどに)とてもよく似ているけれど、同じ青い瞳が一そろいでエアリスを見つめるとき、そこに映るエアリスは違う。そのことに気づいたときに、未来永劫ひとりぼっちであることを、もう悲観するのはやめたのだと言ったら仰々しすぎるだろうか。だってセトラなんて、最後の生き残りだなんて、それがいったい……
「エアリス、何してるんだ?」
 今ここにある恋と比べて、どれだけの切実さがあるというのだろう。
 かけられた声に振り向くと、廊下の端に立ったクラウドがこちらを見ていた。いつでも今この瞬間に生まれたばかりのような無垢なまなざしが、余計なものは映すことなくぴったりエアリスに向けられている。けれどちっとも重たくない。
「うーん、なんにも、かな。ぼんやりしてた」
 そう? と言うみたいに傾く金色の頭に、エアリスはほほえんでみせる。
「ちょっと、ひとりになりたかったの」
「……邪魔したか?」
 頭をかいて、困った顔をする青年の存在に、エアリスは幸福と絶望を等しく覚える。恋をしたらきっと誰もがそうなんだろうと思うと、笑わずにはいられない。心臓がぎゅうっとする。でもそれを、目の前にいるクラウドはちっとも気づかない。
「クラウド、こっち来て」
 手を伸ばして、手に触れる、それだけでいいのに。







よくある孤独
お題:エナメル
20140906
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