眠りから覚めて戻ってくるときの、一瞬の浮遊感とそれからからだが地に足の着いた重みを取り戻す感覚が、先程までのはああ夢だったんだな、と教えてくれる。
 輪郭のない微睡みから目覚めると、そこはぼんやりと明るいスラムの教会だった。
 レノは自分で被せていた腕を顔からずらして(ぱた、とスーツの両腕が長椅子に落ちた)、細めた目でゆっくり視界に映るものものを脳細胞に送ってはあーおれは何をしていたんだっけかねえ、ということの答えを探してみた。まだ全身をやわやわ包む微睡みに落ちる前はいったいどんな状況だったのか……
 寝転んだまま起き上がらずにいるレノからしたら幾分高いところからこっちを覗き込む顔が、レノがそこに焦点を結んだタイミングでちょうど微笑んだ。レノからしたらまだ幼いと言える、しかし美しいと言える造作が背後から光を受けて、やや逆光のなかで滑らかに動いた。
「おはよう。寝ぼけてる? めずらしい、ね」
「おはよう。……おはようで合ってるか、と」
「うーん。こんにちは、かな」
「どうも。じゃあこんにちはだぞ、と」
 そうとさりげなく伸びてきた手に手を引かれて上体を起こすと、もうあんまり高くない、近くなった顔がまたにっこりとしてこんにちは、と挨拶を返す。それでさらりと離れていった手はやわらかさと同時に心地いい程度の冷たさを持っていて、汚れなんて一つもなかった。花びらも葉っぱも土くれも。
「おれは結構寝てたのかな、と」
 形のいい耳の縁が光にぼわっととけて、茶色い髪がふんわり額にかかっている。さらりと揺れる。
「そんなに。お花の世話、終わって、すこし見てたら起きちゃった」
「見てた?」
「うん」
「悪趣味だぞ、と」
 レノが我ながら決して愛想のいいとは言えない顔を露骨に歪めると、女は化粧っ気のない唇をちょっと持ち上げてふふふとわらった。まるで邪気のない、レノとは対照的なくらいの善良なそれだ。どう頑張ってもせいぜいいたずらっぽいとしか言えない。
 レノは力の抜けた指で鼻の頭をかいた。
「何か言ってたかな、と」
「あなたが? うーん……」
 夢でも見たの、と問われて、レノは数分前までとっぷり浸かっていた風景を思い出そうとしてみたが、それらは既に遥か彼岸に遠ざかってしまって上手くいかなかった。けれどまぶたの裏に耳の奥に指の隙間に、何か残滓がこびりついているような気がしてならない。不快でもない程度の。
「見た気がするな」
「ね、どんな夢?」
「仕事とか女とか、まあ、いろいろ」
「ふうん」
 いい夢じゃなかったな、とレノはぼんやり考える。悪夢と呼べる程に明確でもなかったが、しかし、じっとりと焦燥と後悔が残っている。
 無意識の内に視線を落としていたら、不意に、女のほっそりとした指がレノの前髪に伸びた。何の遠慮もなしに、そして何の気なしに、といった体で数本つまんですっと撫で下ろす。繰り返すそれは、梳かしているような手つきでもあった。やわらかい。
「何かな、と」
「幸運の女神には前髪しかない、って、知ってる?」
 するすると滑る女の指に、レノはこんなに自分の髪は上等だったかと思う。このよく目立つあかい髪。
「こないだ聞いてね、なんか、おもしろいなあって思ったの」
 目をあげると、穏やかに話す女の顔は思いの外近くにあって、そこにかかる前髪なんて手を伸ばせば触れられそうで、伸ばして触れてみれば見た目通りにとても上等なそれだった。目にも指にもやさしい茶色。
 毛髪に感覚などないはずなのに、女はくすぐったげに笑い声をこぼした。
「チャンスはそのときしかないから、逃さないで掴み取りなさい、ってことなんだって。後悔しても次はないから、って」
「へえ」
 でも、むずかしいね。
 女の指が、飽きもせずレノの髪をただ撫でる。瞬きするたび、小さな風でも起こしそうな長いまつげに縁取られたみどりの瞳が、何度も消えては現れる。ほんのすぐそこで。
 こんなに近くでこの女を見たことは、もちろんなかった。
「じゃあ、お姉ちゃん、機嫌も好さそうだし、行きますか、と」
 どこにとは言わなかったレノに、女はようやく指を離してからだを伸ばし(するりとレノの指からも女の髪がすり抜けて届かなくなった)、自分の手で前髪を整え直して、それからやはり美しく、女神のごとく微笑んでみせた。
「そうね」
 自他共に認めるタークスのエースであるレノの、ここのところの任務成功率をすっかり落としてくれている女、古代種という女は機嫌好く笑う。何の裏も知らないようなかおで。
「ランチ、行きましょ」
 まだ夢の続きででもあるように、彼女の教会はぼんやりと明るい。







不幸の女神
お題:mutti
20110917
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