雨の日に、用事もないのにわざと出歩いてみるのに似ている。頭のうえに開いた傘の花に雨粒が落ちて、ぽつぽつ、控えめな音楽のように、それはすこしだけ徐倫を世界から遠ざけてくれる。さあさあ滴る透明なすがたは徐倫の大きな目にも膜をかけてくれて、彼女をいっそうひとりぼっち、哀れな迷い子にもしてくれる。濃厚な水の気配にこころまでぐっしょり濡れて、いまさら涙なんて流さなくていい。……
 月のきれいな夜だったから。
 問われたらきっとそう答えようと、徐倫は決めていたのに。
「どうも」
 半時間ほど前に徐倫も上ってきたはしごを使って、ひょこりと屋根の端から顔を出した徐倫のよく知る大人は、どんな子どもがするより軽々と片手をあげて笑いかけてきた。そのままするりとしなやかなからだを持ち上げてくるのに、徐倫は腹立たしいより呆れるより単純に受け入れてしまう。
「こんばんは、花京院」彼は徐倫を迎えに来たわけじゃない。「こんばんは、徐倫」
 いいですか、と花京院が普段通り丁寧に聞くので、徐倫はことさらぶっきらぼうに好きにすればと答えてやった。徐倫のあからさまな不機嫌は意に介さずに、そうしようと頷いてとなりに座る彼は、次には魔法のようにティーポットとカップを一つ取り出した。一人分の温かいお茶が湯気を立てる横には手作りらしい菓子まできっちりあって、やっぱりこれは魔法に違いない、と徐倫は思う。とてもきれいに出来てある。
「ホリィさんのですよ」
 そこだけこころなし浮いたトーンで告げた花京院は、しかし自分では指を伸ばさない。だから徐倫はそうするしかなく賑やかしさと細やかさを完璧に同居させる祖母お得意のスコーンを取って、黙って端っこにかじりついた。バター風味の生地が歯の間でほろりと崩れる。もちろん美味しい。すっごく。花京院が誇らしげに唇をあげた。
 広がった雲の合間から、月が見えそうで見えない。でもどこからか差す光に照らされて花京院の表情はぼんやりとわかった。ぼんやりとしか、わからないけど。彼は口下手ではないが饒舌なほうでもない。ただ理知的な眉がちょっと下がっている。
 品の良い紅茶の香りが鼻先で揺れる。混じり合って漂う花京院の沈黙は誠実な無関心で成っていて、押し付けがましいところがなく、だから徐倫は彼を嫌いになれない。同じだけ好きにもなれない、と思って見ると、花京院は柔和にほほえんだ。そのかお全体に落ちる影は今夜の月と雲のせい?
 二人は物も言わずにひしと見つめ合っていて、でも、二人の黒目と黒目を繋げても、そこにはまったく何にもなかった。ただあると言えない、儚いまぼろしがひとりいるだけだ。徐倫にとっては“父親”で、花京院にとっては“友人”という他人の。まぼろしを通じてしか繋がらないそこには意地も要らない。
「心配してますよ」
 花京院が、徐倫を見据えたままでぽつりと言った。それこそ初めに大地を濡らす一滴のように落ちた一言で、そして歌うような、一連なりのフレーズとなって滑らかに唇から出た言葉だった。花京院の話し方はいつも穏やかで、確固とした意志に根づいてやわらかい。花の棘も毒も香りも、美しさも、必要があって備わるものだ。
「雨が降るかもしれない」
 降ればいいと徐倫は思った。叶うならいますぐに、そうしたら徐倫は父親のいる屋根のしたに帰ることができるのに。







さびしくなりたいな
お題:耳
20110405
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