徐倫は幼いころよく幽霊を見た。
(よく、と言ってもそれは出歩くたびにあちらこちらであんなこんな幽霊を見た、というのではなくて、徐倫が見たのは決まった、たった一人の「彼」だけだけれど)

 彼はふと振り向いたときには既にいて、まるで当然のように、自然にそこに立っていた。ときには座っていることもあった。毎日の穏やかだったりそうでなかったりする、母親とたまに父親との生活のなかで、前触れもなく彼を見つけた徐倫は、けれどあまり驚いた記憶がない。初めて彼を見たのもいつかわからない、ただゆるやかにとけるように彼はいた。
 彼はいつも黒い襟の高い服を着ていて、季節を問わず長い袖で手足を被っているものだから、徐倫は幽霊には着替えがないのかしら、とかわいそうに思ったのを覚えている。顔立ちを見れば日本人のようだけれど、彼の髪はやわらかそうな茶色で、父の夜のような深い黒色とはかけ離れて、徐倫はこっそり触ってみたかった。でも触れられたことはない。
 彼は幽霊のくせにとても礼儀正しく、開いたドアからしか出入りしなかったし、きょろきょろ好き勝手周囲を見回すこともなく、いたずらもせず、徐倫の部屋にも決して立ち入らなかった。たぶん母の部屋にも、父と母の寝室にも。彼がやって来たのは玄関と、リビングと、たまにキッチンとそれから父の書斎。彼はしばしば父の書斎に出入りしていた。仕事をしている父といて何が楽しいのか徐倫には心底不思議だった。彼という幽霊の存在そのものよりもよっぽど不思議で、それが唯一空気のような彼が徐倫を悩ましたことだ。
 徐倫は彼が嫌いじゃなかった。彼は徐倫と目が合うとやさしくほほえんでくれたし、ぜったいに徐倫に危害を加えたりしないとわかっていたから。一目見たときから彼が幽霊だとわかったように、徐倫にはちゃんとわかっていた。
 思い返してみれば、わかったことは他にもある。つまるところ彼は父親にとりついた幽霊で、必ず父のそばにいたのだけれど、いつだってきちんと間違いなく立ち位置をわきまえていた。父と何かあっても触れあったりしない距離で、父が彼を通り抜けて徐倫を見たりしない場所で。彼はほんとうに賢く注意深い幽霊だったから、まるで幽霊でないよう、普通の客人のようだった。まるで父親のうんと仲のいい友人のようだった。生きているひとのようだった。彼はわざとそういうふうに、気をつけて気をつけて、がんばって上手に振る舞っていたのだ。
 でも、徐倫には一目で彼が幽霊だとわかった。
 いまも。
「久しぶりね」
 徐倫のために攻撃を受けた父は静かにまぶたを閉ざしている。娘の目から見ても完璧なその造作を、彼はかなしげに見下ろして、徐倫を見て昔とすこしも変わらずにやわらかく笑った。
「大きくなったね」
 十九年以上も不毛にとりつき続けているとは思えない、みずみずしい笑顔だ。生きているもののようだと徐倫は思う。
 いまも徐倫は彼の名前を知らない。徐倫の知る限り十九年、父親は一度だって彼の名前を口にしない。







ゆるやかな剥落の中で
お題:濁声
20101005
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