承太郎の背中はとても広くて大きくて頼れるものなので、だからよくないのだろうかと花京院はたまに溜め息を吐いてかぶりを振りたい気持ちになった。それでもいつもそういう大仰であからさまな動作を堪えるのは、別に気遣いが故のことではなく、大半は花京院自身の、並より随分と高くに設定されている自尊心の為だ。いまは真っ白い服の布地が眩しいほどに太陽を反射して、まるで見てはいけないもののように承太郎を縁取っている。
 花京院の立つ位置からは(ドアから室内に踏み込んだところからは)左の肩甲骨辺りまでが覗ける体勢でいる承太郎は、どうやら読書の最中らしい。数秒見ていただけで目が痛くなった花京院はよくやるなとあきれかけたが、トレードマークである帽子のつばが上手に彼の眼球と神経を保護しているらしく、承太郎は何の不具合も感じてはいない様子だ。彼はときどきとびきりに鈍感な生き物になる。
(承太郎)
 花京院が名前を呼ぼうかと口を開きかけたそのとき、承太郎が背にする窓から入る風がふといたずら心でも起こしたかのように、彼の手の中で自然に本のページが一枚捲れた。おかげで花京院は上下の唇を中途半端で意味を成さないかたちに離した、傍から見たらたぶん結構な間抜け面を家付きの小妖精にでも晒す羽目になった。不本意にも。
 本に添えられた太い指は動かない。深い緑の瞳は目深にかぶったトレードマークにかたく守られている。
(……承太郎?)
 花京院は雲の上を歩くときのように注意深い足取りでもってそうと、なんとか一歩を踏み出して、そこで気付いて足を止めた。……まるで死人のようだと花京院は思ったが、それは自身のまったく素直でない願望でしかないと理解していたので、今度もやはり溜め息はのどの手前で潰すことができた。代わりに目じりを下げて口端を上げる。下手くそな笑みだとは自覚している。
 もちろん、彼はただ眠っているのだ。ほんのひととき。
 花京院は細めた目でようやく承太郎を見、しかし結局目映さに耐えかねて視線を逃がした。あの旅で傷ついた目はいまも完治しないままで、こういうときばかりはどうにも不便だ。精神的なものかもしれない。体のいい言い訳になるというのも事実だ。
 曇りがちの夏の日差しの中で、承太郎はしらじらと眩しい。
 花京院は常々承太郎との距離感には最大限の注意を払っているが、そんな些細な努力(あるいはこれこそ気遣いだ)がひどくばからしくなるのもこういうときだ。結局のところ承太郎はいつだって変わりなく承太郎で、花京院もとにかく花京院で、承太郎は花京院がいようとこうして容易く浅い眠りの縁を行ったり来たりする。それを認めるのは一つの諦念でもあったが、いい加減十年も経てばそれくらい覚えもするだろう。花京院も、おそらくは承太郎だとても等しく。
 右肩を壁に預けた姿勢で眠る承太郎は生きた彫像のように美しく、やはり見てはいけないもののようだ。そのたくましい肩甲骨にいっそ翼でも生えればいいと花京院は思い付いて、想像してみて小さく笑う。彼の広くて大きくて頼れる背中はたとえば彼の母だとか妻だとかもしくは娘だけを負ったり守ったり導いたりするためにあるのであって、昔少しばかり預かることがあったにしても最早とうに花京院の干渉する余地にない。花京院はそのことをよくわかっている、正しく理解している(何せもう十年が経ったのだ……)。
 それでも、と花京院は届くことをあきらめた声で呟いた。それでも君が心配なんです。体のいい言い訳だ。
(翼が生えれば君は海に潜るのをやめるだろうか? 承太郎)







背後霊
20090824
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