動かないで下さいね、という言葉のあと、彼女の指が無遠慮に迫って来るものだから仕方なく目を閉じた。まぶたの薄い皮が近付く危険を感じて怯えている。彼女が悪意というものから最も遠い人間であるのはもうとっくに確かなことで今さら疑うべくもないのだけれど、この今文字通り眼前に迫っている指先ときたらそれと同じくらい注意深さとかそういうものからも遠くにいるようなので、正直まったくこころやすらかでいるとは言えないかもしれない。特別不器用なわけでもないようなのに、彼女はときどき信じられないことをやらかしたりする。鈍いというのはだからこんな人間のことを言うのかもしれない。一つばかりの意味でなく。
「……いい?」
「あっ、いえ、もう少し待って下さい」
「なに」
 指は退いて行ったから危険の予感とそれに伴うちょっとした緊張からはもう解放されて、なのに彼女はまだ目を開けるなと言う、そのまぶたあたりが未だにそわそわする。視線を感じる。彼女の、まるこくていつもまっすぐ落ちるやつ。
「どうしたの」
「秋山さんて」
「うん」
 ……彼女の声が丁寧にくすぐってくるから我慢できなくてまぶたを持ち上げた。光がはっきりと輪郭をとって、彼女がふふと笑っている。少し照れた顔で。彼女の笑顔というのは幸福とかそんなのがふんだんに詰まってるなあと思う。すごくわかりやすく。
「なにそれ」
「見てるだけでほーってためいきが出ちゃうんです」
「……ふうん」
 だから我ながら素直とはとても言えない自覚がある(彼女となんてとても比べられない)秋山にでも間違わずに届くのだ。彼女の持つそれらは。ばか正直ってすごい。秋山はほとほと感心してしまう。
「キスでもされるかと思った」
「ええっ、いや、そんな、」
「いや?」
「いえ!」
 ぱたぱたと手を振って否定する姿は大変かわいらしいのだけれど、ちょいとつついたらそのまま後ろ向きに(頭から)倒れてしまいそうに不安定だ。危なっかしい。悪意からも安定からも遠いところで、彼女はどんなふうに生きてるんだろう。目を離せやしない。
「君もだよ」
「え?」
「もう一度目閉じようか?」
「ええっ、……お、お願いします……」
「了解しました」
 腹の底から上ってくるものが甘ったるく唇から溢れる。本当はそういうものなんじゃないだろうか。







ためいきのひと
お題:落日
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