鮮やかだった夕暮れが薄れて、だんだん色をなくしていく空に、ぽかりと月が浮いていることに気づいた。さんざんもてあそばれたぬいぐるみからひっぱりだされたような薄っぺらい雲の向こう側で、浮いているというよりかくり貫かれているみたい。白いとも黄色いとも言えない。満月。毎日まいにち海の上にいて、仰げばいつでもそこにあるものに、それでもこうして改めて触れるときがある。生きているということを、日常のなかに見つける瞬間。あれだけめいっぱい冒険をして冒険をして冒険をして、でもこんなときに。
 ふっとあごを振り上げたままの格好でじっと月を見つめてしまったのは、似ていると思ったからかもしれない。



 長い航海になると当然食事にはいろいろ制限がつくけれど、そこが海のコックの腕の見せどころ、とウインクを飛ばすサンジくんのおかげでわたしたちの舌と胃はどこでもすっかり贅沢ものだ。乱舞するハートは打ち落として、昼に釣り上げた魚をメインにした料理を気持ちよく平らげ、本能にエスコートされるままに眠りに就くのは明日の冒険への活力を生み出すためにはとても重要なのだけど、今夜は少し寄り道をしたい気分で、わたしは一度女部屋に戻ってからみかん畑へ歩いた。静かな宵に響く自分の足音が、なんだか密やかに聞こえる。ロマンチックだ。
「あら」
 わたしの大切なみかん畑は、たとえ大切なクルーであろうと不可侵だ。勝手に手を出すような不埒者には鉄拳あるのみ(だけどこりない)。
「盗み食い? めずらしいわね」
「とんでもない。おれがどうしてあなたの宝物に手を……? こんばんは、ナミさん。すてきな夜だ」
 みかんの樹のとなりに姿勢よろしく立っていたサンジくんが、芝居がかって挨拶する。
「そうね。でも、だからって許してあげないわよ。何してたの?」
 本当にサンジくんが盗み食いをしようとしていたなんてちっとも疑っちゃいない。ちょいと首を傾げて訊くと、彼も承知している顔で受けてこうべを垂れた。
「あなたをお待ちしておりました……お手をどうぞ、レディ」
「ありがと」
 伸べられた手をとってとなりに立つと、サンジくんはもう一方の腕にかけていたものをわたしに見えるように掲げてみせた。月明かりで、はにかんででもいるような頬が見えた。
「お茶をお持ちしました」

 それから並んで座って話したのは、他愛もない、たとえば小さい頃は月がずっと追いかけてくるように思えただとか、そういう話だ。実はいまでも少しそう思える、と言うとサンジくんは穏やかに頷いた。ゆっくり空を仰いで、
「月が綺麗ですね。もちろんナミさんには到底敵いませんが」
「はいはい」
 わたしは魔法のようにおいしいお茶を飲みながら、サンジくんの言葉を聞き流す。本当にあんまりお茶がおいしいから、そちらを味わうのに舌と喉が忙しいという事情もあった。「…………」損な魔法使い、サンジくんの動きと言葉に促されて見上げた星空には、もうひきのばしたような雲はなくなっていて、月だけがやっぱりぽかりとまるくて、小さかった、昔のことを思い出した。これから先の、未来のことを思った。それから生きているいまのことを。
 ああなんてすてきな夜かしら。
「ねえ、満月って麦わら帽子みたいね」
 こらえきれなくて笑って言うと、サンジくんもおかしそうに笑った。







さよならの先がない
お題:ことばあそび
20100101
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