(――朝目を開けていちばん最初に、いとしいあのこの顔が見られたら)
(そりゃあ幸せに違いない)
 そんな何かの歌の一節を、今見た夢の中ででも聴いたように、ふいと思い描きながら冠葉は目を開けた。単純な歌詞に重なって捲れた布団と投げ出された自分の手と、その向こうにはきちんと畳まれたもう一組の布団が見える。視界の外ではややボリュームを抑えたテレビがニュースを読んでいて、コトコトパタパタ、台所からは一日を始めさせる生活の音がしている。嗅ぎ慣れた味噌汁の匂いの中で、冠葉はゆっくりからだを起こした。目を瞬いて、ふわあっとあくびを一つ。まっとうな朝の光に照らされた彼らの居間は、不具合なく、今日もささやかで、慎ましい。
 狭い敷地に控えめに建った家のなかで、ほんとうにすぐそこの台所で立ち働いていた晶馬が、冠葉の目覚めを察して顔を覗かせた。客観的に見て「格好いい」より「かわいらしい」に近い造作に呆れをにじませて向けてくる(冠葉が晶馬の顔立ちを「かわいらしい」と思っているということではない)。
「やっと起きた? もうご飯できるから、さっさと顔洗って着替えてよ」
 まるきり主夫の台詞を朝いちばんに吐く弟に、あー、と、返事なのか発声練習なのか自分でもしれない声で応じて、冠葉はよいせっと立ち上がった。挟まっていた布団をてきとうに丸めて、テレビを一瞥してから洗面所へ向かう。今朝はどうも、少なくとも大騒ぎしなくてはいけない出来事はないらしい。小さな画面に映ったスタジオ風景は平和なものだった。まあ、世の中に何が起きたところでこの家にとって大切なものが変わるわけはなく、この家の大切なものがどうなろうと世の中はニュースに取り上げはしないだろうが。

 冠葉の、世界中の何よりいとしいいとしい妹はその長い髪にブラシをかけているところだった。
 洗面所の入り口に立った冠葉を鏡のなかに見つけて、陽毬はにっこり笑う。決して眩しくはない程度にだけ明るい空間に、そっと静かに溶けるような笑顔だ。溶けて消えてしまうから、冠葉はいつも触れられない。そういう類の。
「おはよう、冠ちゃん」
「おはよう、陽毬」
 一歩脇によけてくれた陽毬のとなりで顔を洗い、口を漱ぎ、髪に手をやる。とりあえずで整えていると、陽毬の手が冠葉の後ろ頭に伸びてきた。冠葉は鏡に映る動きに気づいて振り向こうとして、でもその前に陽毬の指が髪を掴まえたから振り向ききれなかった。心臓がどきっとして、少しひっぱられた髪の生え際がみょうな感じがする。
「何だよ?」
「ねぐせ。ここ、ぴょんって」
 答えて、陽毬の手はそのまま、はねた髪の毛ごと冠葉の頭を撫でる。鏡を覗き込むのに背を曲げていた姿勢から、冠葉は動けなくなってじっとしていた。自分の髪が自分のものじゃないようだ。鏡を使っても本人には見えないところにねぐせがあるらしい。
「ここか?」
 指の感触を頼りに腕を動かすと、入れ違いにすっと陽毬の手は引っ込んでいった。何となくで髪を触る冠葉に、そうそう、と陽毬は頷く。それから自分の髪を梳く作業を再開させるのを横目で見て、冠葉はその髪を撫でてやりたいと思った。撫でて、うんと丁寧に梳いてやって、彼女の好きな髪形にしてやって、いちばん気に入っているリボンを結んでやる。
 そうしたってちっとも構わないだろうが、けれど今は晶馬と朝飯が待っているし、着替えなくてはならないし、そうしなくても陽毬の髪はさらりと細い背中に流れている。
「朝ご飯何かなあ」
 晶ちゃんのご飯、何でもおいしいよね。
 心からそう思っているのだろう声で言って、陽毬はにこにこする。晶馬の料理は実際に高校生男子が作るには十二分のレベルで、好みに合っていて、おいしいと冠葉も思っているが、陽毬がそう言うともっとおいしくなる。「まあな」
「三人で食べると、すっごくおいしいね」
 そうしたらどんなごちそうも敵わない。

 陽毬はブラシを置いて洗面所を出て行った。晶ちゃん手伝うよ、ありがとう陽毬、陽毬はやさしいなあ、冠葉早くしろよー、冠ちゃん早くー、と声がする。
(――夜目を閉じるいちばん最後に、いとしいあのこの顔が見られたら)
(それも幸せに決まってる)
 歌の続きが頭の後ろを流れていくのと一緒に、冠葉はもう一度見えないねぐせを撫でつけて、それでいいことにして茶の間に出た。丸いちゃぶ台の上には既に三人分の朝食が乗っていて、晶馬と陽毬が囲んでいる。冠葉も定位置に腰を下ろした。今日の朝食は炊き立ての白米と、鯵の開きと、卵焼きと、ほうれん草の白和えと、味噌汁だった。
「おお、うまそう」
「冠葉、遅い」
「さ、食べよ」
 三人そろって手を合わせる。
「いただきます」
 冠葉は毎日陽毬の夢を見るために寝て、陽毬に会うために起きて、だいたい最初に晶馬の顔を見て、最後に晶馬の顔を見る。そうして三人でご飯を食べる。
 幸せだね、と陽毬が笑う。冠葉と晶馬も笑って、本当は泣きそうになる。幸せで。
 そういうふうに朝が来て夜が来る。







昨日も君の夢を見た
お題:エナメル
20120331
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