何となく、のどが渇いた気がして出されたまま手もつけずにいた湯呑みに手を伸ばした。冷たかった。
 縁がそれは堂々と欠けてひびも入っている陶器の内には、利吉の見ている前でごまかすことも恥じ入ることもなく入れられた水道水が、もちろんこの短い間に化学変化を起こすこともなくそのままに入っている。利吉は湯呑みのひびを指先で撫でながら、年季の入った小テーブルの向こう側に座った少年に目をやった。じっと壁紙を見つめていた少年は聡く利吉に顔を戻して、減っていない水道水を一瞥するといかにも不愉快そうに眉をひそめた。短く吐き捨てる。
「さっさと飲んで出て行って下さいよ」
 迷惑なんすから、とさんざっぱら態度で示され続けていた事実をとうとうはっきり言語化までされて、ここまできたかと、利吉にはもはや苦笑するほかなかった。だから利吉はそうしたのだけれど、少年にはそれがまた随分と勘に障る反応であったらしい。年齢より(正確なところは知らない)大人びて鋭い印象のある顔つきをさらに険しくさせて言う。
「笑えるんなら大丈夫でしょ、早いとこ家に帰ったらどうです」
「そうだね。私も別にこの部屋に用はない」
 君にもね。
 利吉は頷き、くさい水道水を一息に飲み干した。当然まずかったが、それでも消費した水分が補給されるのがわかって少しほっとした。
「ごちそうさま。邪魔をしたね」
 言って立ち上がる利吉に、少年はとんがったままの視線を据える。そうやって現実に突き刺してやれればいいとでも考えているのかもしれないが、利吉はそこまで甘くないし、甘やかしてやるつもりもまるでない。義理も筋合いもないと思う。
 玄関(と表現するのもはばかられる、靴を履き替えるためのごくささやかな空間)で利吉が革靴に右足をおさめ、左足も揃えようとしたところで声がした。
「帰って下さい」
 振り返ると、少年が立ってもどかしそうに唇を結んでいるのが見えた。利吉は首を傾げる。
「帰るさ。帰るところだ」
「違う、家に帰れって言ってるんです。迷惑なんですよあんた。さっきみたいに廊下で騒ぐとか、泣くとか、部屋のなかだって壁は薄いし、困るのは先生だってわからないんすか」
「ああ……」
 いやあ、それを言われると、と利吉が先刻を思い出して苦笑いをするのに、少年は吐き捨てるように重ねる。しかし少年の言葉は利吉のもとへと届く前に床にぶっつけられるので、利吉にはとても拾いようがない。キャッチボールなんて端から成り立っていない。
「あんたにはわからないんです」
 少年はもどかしさにではなく、苛立ちに唇を結んでいたのだろう。おしまいの一言はぽとんと落ちるようだった。何の期待も含まれない声だ。
「だから俺はあんたが嫌いなんだ」
「そう言われてもね」
 利吉は困って肩をすくめた。必死のような姿には哀れんでしまう。湯呑み一杯分の感謝もあったし、こんな子どもをいじめたくはなかった。怒られそうだ。他でもない愛しの彼に。
 でも愛を譲ってはやれないなあ。







恋するピンクレモネード
お題:水葬
20100227
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