校内巡回中、ちょっとしたアクシデントに見舞われて腕に怪我をした。と言っても傷自体は小さなもので、きちんと洗って消毒さえしておけば数日のうちには自然と治ってしまうようなものだ。日々鍛えている身、そして立場上揉め事の絶えない環境にある、この程度の怪我はさしてめずらしくもない。 「会長、大丈夫ですか? 痛みませんか?」 だのに、目の前の後輩はとても真面目な様子で訊ねてくる。眉根を寄せて、さも不安そうにして。 「大丈夫だ。それにしても手際がいいな」 椿の負傷(というほどでもない)を知るやいなや抱き抱えかねない勢いで保健室に連れてきて、生憎と不在だった養護教諭の代わりに行ってくれた希里の処置は手早くかつ適切だった。傷口を洗って消毒してガーゼを貼り付ける。椿は感心して、そこまでしなくてかまわないとかそういうのは言えないまま、その短いあいだ器用に動く手先を眺めているばかりだった。 そうですか、とやっと希里はすこし眉間のしわをゆるめて、それからああと椿の言葉に答える。 「幼い頃から修行ばかりでしたから。こういうことには慣れています」 「そうかそうだったな。それなら、これくらい何でもないこともわかるだろう」 「はい。……いえ」 いっしゅんで翻った曖昧な返事に、どっちなんだ、と椿もつられて両の眉を寄せてしまった。希里は自分自身戸惑うように、おれと会長は違いますから、とらしくないぼそぼそ声で言った。治療の為に取られたままの腕に、希里の手のひらが生あたたかい。彼の困惑を伝えるようにじんわりと。 ――そう、いまの希里はどうにも困っているらしく見える。それも結構な程度で、椿にはそれがなぜだかわからない。しかしわからないなりに、椿にとって希里は大切な仲間であり後輩なので(希里は椿を守るまもるというが、椿のほうこそ、守り助け導いてやりたいと思っている)、こうも真摯に困られると同じだけ困ってしまう。何かをしてやれたら。いいのに。 「キリ。確かに、ひとはそれぞれ感じ方が違うものだ。それは想像してみるしかないことだし、いつも忘れてはいけないと思う。だが」 僕は、大丈夫だ。 ゆっくり、一語いちご言い聞かせるようにしてみせる椿をわずかに見下ろすかたちで、一つ二つ、希里は静かに瞬いた。これはとてもまっすぐな目だなと思う。初めて見たときから変わらない。繊細そうな黒いまつげがすらりと並ぶなかに、二揃いのガラス玉は透明すぎるほどで、転がり落ちたら割れてしまうだろうに、と思うと無性に手を差し伸べてやりたくなった。丸いそれがころりと転がってきたらどうか受け止めてやれるように。 「会長?」 まるきり隠されてもいない一つ下の後輩の危なっかしさに、思わず椿がほほえむと、当の後輩はいっそう当惑したらしい。細波のように芯が幾重にも揺らいでかけられる声はなんだかかわいいものだ。 「だからそんなに気負わなくていい」 なあ、と語りかけると、希里は、……何も言わずに俯いた。片側だけに垂らされた長い前髪に隠されて、端整なつくりの顔もそこにかたちづくられた表情も見えなくなる。そうしたら、しなくても、椿には希里の気持ちがわからない。だから想像してみる、と先ほどこの口で言ったばかりだ。 さて彼は今何を思っているのか? …… 「ああ、キリ」 椿が掴まれている(怪我をした)のと反対の腕で掴んでいる希里の腕の、肘のやや下辺りをとると、びくりと希里はわずかに身を竦めた。拍子に俯せていた顔もあがる。色のない前髪が跳ねて落ちた。 「お前こそ怪我をしているだろう。ほら」 「ああいえおれは」 「いいから」 すうっと逃げようとする腕を逆にひっぱって、有無を言わさず普段から折ってある袖をさらに捲りあげる。すぐそこに鬱血して変色した肌が現れて、希里の眉がこころなし下がった。椿の怪我の処置のためにと希里が出してきてあった救急箱を引き寄せる。 「そんな、会長のお手を煩わせることは」 「僕だって格闘技をやっているし、慣れている。医者の息子でもあるんだ」 だから大人しくしていろ、と椿が言うと、希里は命令だと捉えたのかとたん素直に従った。ほんとうに、誠実に彼は椿の忍びであろうとしているのだ。その度合いにはまったく呆れも感心もする。もしくはどこか気弱になっているのかも、と彼の目の縁ににじむ色が思わせた。 「…………」 「…………」 椿が簡単な処置を施すあいだ、二人はお互いに黙っていて、風一つない保健室にはでこぼこした沈黙が不格好に落ちた。視界の端で白いカーテンがひっそり佇んでいるのが、なんとはなし危なっかしい静けさを増すようだ。 椿は考えて、想像してみる。 (不甲斐ないだとか情けないだとか悔しいだとか……) 例えば、もしかしたらそんなことだろうか? 「会長」 数ヵ月前まで自分も違う誰かを同じようにそう呼んでいた呼び方で声をかけられて、時の流れを反対に歩きかけていた椿はすこし遅れて手元にやっていた目をあげた。 目が合った。 希里が、瞳の奥から声も表情も、吐き出す一息にまでとても慎重になって(いつかの誰かのように)言う。 「ありがとうございます」 だから椿も丁寧に答えた。そうしたかった。 「僕こそ、ありがとう。助かった」 なんだかこころあたたかい、きもち切ない、懐かしい気分だった。風も吹かない。
われものだから、優しくね
お題:けしからん 20110906 |