両方のまぶたを持ち上げて視界が開かれていくのと同時に、ぴったりゼロ距離にあった安形の顔が離れていくのを、椿は名状できない不可思議な心持で以て見ていた。安形との距離が「普通」のそれに戻った分、広がった世界はあたりまえに日常過ぎて奇妙なほどだ。薄暗い資料室、埃っぽい空気、硬質のスチール棚。そこかしこに降り積もった時間がそのままに取り残されて、いま椿と安形を囲む学校という空間の片隅を作り上げている。
(こんなことを)
 椿の視線を一舐めして、安形は目をぐるりと室内に回す。一度定位置に直した首をやや傾けて、あー、とあまり考えているふうでもなくうっすら開けた唇の間でぼやいた。首筋に手のひらを当てた格好でまた椿を見て、「で?」とあっさり投げ渡す。
「何しに来たんだっけか」
「一昨年より前の原案を取りにです」
「ふうん」
 めんどくせえなあ、と口にはせずとも安形が思っているらしいのは初めからで、それでも先ほど椿に伸ばされていた彼の腕がとにかく手近な棚をがさごそ探り出したので、椿はそこからすこし離れた辺りから調べることにした。様々な資料がとりあえず収納されている棚は一見整理されているようで、しかし実質は見た目整頓されて詰められているというだけだ。見渡しただけでは目当ての物が見当たらないので、一つずつ引っ張り出して確認していくことになる。
 めんどくさい、とは椿は思わないが、効率の悪いことをしているという意識はある。きちんと管理していないこれまでの学校側の体制が問題だなとも思う。ぱらぱらと捲ってみた帳簿らしきノートの端には大きな埃が引っかかっていて、抓まんで放したらふうっと落ちていったのを何となく目で追った。
(こんなところで)
 棚に並んでいる資料を取出し、内容を確認しては元に戻して次に指をかける。誰かが何かの資料を探す度に同じ動作を繰り返してきたのだと思うと、これは結構な不毛な作業だ。いつかどこかで整理しないと、という思いだけが順繰りに手渡されてきている。

「…………あ、」
 時計もない部屋で単調な仕事をしていると、どうしてもぼんやりしがちになる。
 あったぞ、という安形の声が左後方から椿の鼓膜を揺らし、そこから脳内にたどり着いて意味を噛み砕かれるまで、このときは驚くほど(この「驚く」にも)時間が要った。かけられた声にほとんど反射的に、無意識のうちに振り向いた椿は、そのくせすぐそこに安形が近づいてきていることになど、これっぽちも気づいても考えてもいなかった。おまけに。
「“あ”?」
 ゼロ距離からほんのすこし二人の間に空間を作って、だがまだまだ近過ぎる距離で安形は椿を見ている。焦点を合わすのもやり難いような距離で、安形の黒目に移るものを確かに認められたわけではないけれど。
「あがたさん……」
 いつも通りには組み上がりきらず、こぼれた声は溜息のようになった。
(こんな簡単に)
「何だよ」
「不意打ちです」
「いいじゃねえか」
「こんなことを、」
 安形の指が椿の耳の後ろあたりに滑って、髪と皮膚の浅いところを撫でられる感触に止まった言葉ごと、ばっくりと呑み込まれる。最早ぴったりどころでなく食いついてくる唇に、椿はきつく目を閉じた。後頭部を引き寄せる他に安形のもう一方の手が動かないので、ああほんとにちゃんと探していた分は持っているんだな、とそんなことを思う自分は自分なのか疑わしい。こんなことをこんなところでこんな簡単にできる、自分をそんな人間だと、椿はすこしも考えていなかった。
「こんなことをしに来たんだって」
 笑い声で囁く、安形との距離がない。







もっと特別なことだと思っていたんだ
お題:月にユダ
20111009
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