いなくなってしまった者たちをおもうとき、ガイは空を見上げる。その瞳のようだと何度も言われた昼の空に、眠れない夜にはまたたく星々の物語を数えた空に、父を母を、姉を、皆をおもう。ホドは沈んだのだと確かに知ってはいても、どうしてかそうするようになっている。これはきっとみんながいなくなるより前にガイの内に根を張った事柄で、だからガイにとってのホドはいまや空にあると言えるだろう。手の届かない高くに(ガイはそのことに安堵する。どうしようもない、と正しく表せるほどかなしくつらいが、泣き喚いて引きずり落とせるところでなくてよかった)。
 うすくながく曇った空から視線を下ろして、ちいちいと親鳥を呼んで鳴く声に一度ひっぱられて、それからようようガイの目は中庭の中心を向いた。そこでは彼の主人が、かつての彼の従者から剣の手ほどきを受けているところだ。集中力がなくわがままで悪い意味で自分に素直なルークが汗だくになって必死になって、師の言葉を一言も聞き漏らすまい、一時だとて無駄にすまい、としている様はほとんど感動的だ。ヴァンのことを尊敬しているのがよくわかる。この時間を持つたび、尊敬して信頼しているのが何度もわかるし、ルークにだってちゃんと他人に礼を尽くし心を開くことができるということもわかるから、ルークをばかにしている騎士も憤っているメイドもこの姿を見ればいいとガイは思う。いつでもありのまま剥き出しのルークの違う面。それを知れば彼らも変わるだろう。(自分のように……)ガイはそんな希望を持ちながら師弟の濃密なひとときを見守る。ほほえましいとさえ思い、ときには実際にほほえみながら。そういえばそのことを先日ヴァンに指摘されたので、すこし気を付けてみたら本当にほほえんでいてなんだか恥ずかしくなった。
 やあ、とかえい、とう、と勇ましい声をあげながら振りかぶり降り下ろし突き出し薙ぎ払うルークの剣をヴァンはすべて軽々といなして、はっ、とかふっ、という気合いが聞こえたと思ったらルークの手から木剣が飛んでいる。そうやってカラカラン、と幾度目かに澄んだ音がしたところで休憩になったらしい。木剣をひらってルークがこちらに歩いてくる。半ば剣を杖にしてずりずり足をひこずってくるルークに、ベンチに座っていたガイは立ち上がって用意してあったタオルを投げてやり、もうすこし近づいてから丁寧に水を手渡してやった。どすんとベンチに腰を落としたルークは口も利けないくらいへとへとで、かわいそうにとガイはちらりとそれを横目にしてからヴァンの元へと走って同じものを渡す。ヴァンの雄弁な口許がほころんだ。
「お疲れ」
 ガイははじめこそ意識していて、いまでは意識していたはずのその部分だけがぽっかりなくなって空洞みたいになった気楽な声で言った。一使用人が剣術指南に通っている謡将に掛けるにはとてもふさわしくないが、ヴァンは気にしない、変わらない調子で堂々と応じる。
「貴公もまざるか?」
 ガイは肩をすくめた。ひょいっと軽く、道化めいていると自分でも思うしぐさだ。
「まさか。ルークに邪魔するなって怒られちまう」
「私から言えばいい」
「いいいい。怒らせないでくれよめんどくさいから……俺は見てるだけで充分だ」
「空をか?」
「お」
 気付いてたのか? とガイがちっちゃないたずらを見咎められたような気分になると、ヴァンは当然だとでも言うようにおうように頷いた。何でも知ってるみたいだなあ、とガイはすなおに感心する。昔のヴァンにはもっと幼いところもたくさんあって、いまにして思えばかわいらしいと言えるところもあったのだけれど、あの頃のガイからしたら何でも知っていて何でもできるような頼りがいもあった。急に懐かしくなって心臓とそこから送り出される血液がじんとした。
「貴公の様子は見ているさ」
「おお。そうなのか……? でも俺なんかよりもっとルークを見てやれよ。おまえに心酔しきってる」
 ガイはからかうために言ったが、浮かべた笑みはすこし苦いものも含んでしまった。ルークは本当にヴァンの滞在を喜び心待ちにしている、その分前後の気分のアップダウンが激しい。ただでさえ気性を隠すということがないから、それだけ毎日抑圧されているのだと思えばかわいそうにもなるし、過度に振り回されれば苛立ちもする。そのことを思い出していた。
「空に何かあるのか? 本当によく見ている」
「いや……どうだろうな。単にぼうっとしてるんだ」
 ルーク付きとしての仕事、それ以外の仕事、しがない使用人であるところのガイは朝から晩まで忙しい。一日あれこれ働き詰めで、ゆっくり空を眺められる機会はほとんどこの稽古中くらいだ。だからその間よく空を見ているというのはおそらく事実だろう。
「ガイ? 先生? 何話してるんだ?」
 一休みを終えたルークが離れた位置から声を投げてきて、ガイは振り向いてまた肩をすくめてみせた。
「世間話だよ。今日はいい天気だなあって」
「そうかあ?」
 ヴァンからタオルと水を受け取り、ガイは有能な使用人らしく速やかにベンチに下がる。途中すれ違うときにぽんとルークの肩を叩いていくのも忘れない。「頑張れよ」こっちは気心の知れた友人の分だ。おう、と頼もしい返事をもらってガイはほほえみ、ほほえんだまま頭上を仰いだ。その前に一瞬目が合ったヴァンにも笑いかけて。



 雲がうすーく伸びて広がっている空は水色で、かたまりの雲がないから透明で厚みのない板がぱしっと張られているみたいだ。いなくなった者たちをおもうときガイは空を見上げる。でもヴァンはそうじゃない、ということにいま思えば、という条件で気が付いた。ヴァンは彼らをホドをおもうとき必ず下を見ていた。自分が立っている、踏みしめている地面を、そしてそのずっと下を。だからあのとき起こったことについてはヴァンのほうがより正しく理解していたのかもしれないとも思う。崩落、という言葉はガイにはあまり現実感が伴わなかったから。ヴァンは魔界に沈んだ故郷をその目で見て身に染みて理解していて、それでこそきっと下を見ていたのだろう。重ならないはずだ。ガイにとって空は手の届かない高さだったが、ヴァンはぜんぶぜんぶを沈めれば届くと思ったのかもしれない。いま思えば(これはつまりいまさら、ということだろうか?)。
「ガーイー? 何見てんだ? 何かあるのかー?」
 ガイは明るい空を見つめすぎて滲んできた涙をぱちっとまばたきで払った。まだ距離を置いたところからルークの声がしたから、そちらにからだごと振り向く。
「ガイってよく空見てるよなー」近付いてくるかつての仇の息子に手をあげて答えた。
「空を見てたんだ。いい天気だぞー、ルーク」







そちらは地獄
お題:獣
20100405
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