握った剣を振るえば刀身から赤色が散る。夜闇のなかで目には映らなくとも、草の間に落ちた液体がじっとりと黒ずんで地面に吸い込まれていく様を脳裏では描きながら、払い切れない血液と油は布で拭う。なるだけ丁寧に、次の切れ味を鈍らせないように、表面を撫で上げてからゆっくり刃を鞘に収める。
 ぱちん、と簡素な音とともに身に染みついた工程を終えて、ユーリはほっと一息吐いた。
 いつかエステルに指摘を受けたように、ユーリは闘いが嫌いではない。どころか、とぼけたようで鋭いお姫様の言葉通り、好きだと言う方がきっと正解だ。相対するのがモンスターであれ人間であれ、自分の力を試せる機会には昂揚するし、拮抗する相手としのぎを削るのは疑いなく自身を高めることだと感じる。あの独特の緊張感、全身を隈なく巡る生きている実感、そしてどこか一点澄み切った静寂。そのすべてがユーリにとっては快い。しかし同時に、やはりいつでも、闘いを終えて武器を収める瞬間にはどうしようもなく安心する。安心する、という事実にほっとする。
 思いの外深くなった吐息に続けて苦笑をもらして、今度は鞘のうえから剣を撫でた。冷たい金属が指の腹を滑って、そこからひとりの夜が染み込んでくるような気分になった。武器を放して空いた手のひらに冷えた空気が触れる。消え去っていた虫の声が、だんだんと戻ってくる。雲の向こうから弱々しく落ちる月の光に、野生の花が儚く照らされるのが見えた。
 季節はいつだっただろう、とふと思った。
 かつて、エステルに出会うよりずっと以前、ユーリがまだまだ大人びた子ども(生意気な、とも言う)に過ぎず、隣にはいつだってフレンがいた頃。ユーリとは違う意味で生意気でもあり素直でもあった親友が、いまのユーリのように剣の手入れをしていた場面がよみがえる。道具は大切にしないと、と生真面目に言う横顔を見ていた記憶があった。フレンはユーリよりはるかに不器用だが、何にでも真面目で、きちきちやっていた。そして口うるさくユーリにもそれを求めた。面倒くさがりだがまめなユーリが道具の手入れを怠らないのは、生来の気質に、物が不足していた育ち、それから幼馴染の懸命さからできているのかもしれない。二人はおそらくお互いが自覚しているよりずっと根深く影響し合って生きてきていて、たまにそのことに気付かされてはうんざりする。こんなに遠く離れたというのに。
 ユーリは腰に手を当て、背骨を反りかえらせて伸びをした。自然顔が仰向くが、あいにくと今夜は星が見えない夜らしい。あの時もそうだったろうか。
 少年のフレンがからだつきに比して大振りの剣を握っていたことを、当時のユーリは何の拍子かからかった気がする。実際のところフレンはその獲物をきちんと使いこなしていたし、少なくともユーリは手合わせでフレンに勝ったことはなかったのだが、そういうこととは関係なく、からかったというよりも、単純にでかいんじゃねえのそれ、程度の感想だったかもしれない。その時の自分の気持はあまり覚えていない。年月に隔てられて、そんなことあったなあ、とぼやけた影が他人事のようにゆらめく。
 季節も虫も花も曖昧な思い出のなかで、はっきり覚えているのは、応えたフレンの言葉だけだ。
(大きくなって、強くなって、みんなを守りたい)
 いまでも変わらない、笑ってしまうくそ真面目さでフレンは言った。思い出して、ついユーリは笑ってしまった。ほんとうに彼は昔から、言葉もないくらいばかばかしく正しいのだ。その時からすれば確かに大きく強くなったいまも、同じ真摯さで同じ言葉を口にできるだろうと思われる。
 それだからユーリは帝都を離れ、親友との間に長いながい距離を置いても、あの日のままに剣を握っていられる。成長という名の変化を通り過ぎても、切っ先をぶらすことなく、ユーリの正しさに向けられる。
 たとえその切っ先が人の血に濡れていても。
 いまさら刃は下ろさない。
 たったいま屠ったモンスターの躯を見下ろして、ユーリは両の手を軽く握った。ユーリが気まぐれを起こしてひとり夜歩きになどでなければ、この獣も、少なくとも今晩死ぬことはなかった。その可能性とユーリが裁いた人間の可能性が等しいとはどうしたって言えないが、それでも、もう彼は選んだのだ。仲間であってもエステルであってもフレンであっても、誰であろうと、斬るべきだと信じれば迷わない。明けの明星も上らない夜の最中でも、孤独にも歩みを止めないと。
 人の血を洗い落とした夜を思い出し、ユーリはわずか目を瞑った。あの夜小刻みに震える指先が朝には止むことを祈ったし、それが叶うことを知っていた。
(なあフレン)
 星のない空の下、どこにいるとも分からない幼馴染に向けて、小さく呟く。いまこの瞬間地上の距離がどれだけあっても、間違いなく届くと思っている。夜の闇を暗いくらい海だとするなら、それだけがユーリを導く灯台になり得ると思う。
 だからどうか。
 あなただけはわたしを許さないでいて。







星の届かないところでは
お題:エナメル
20140509
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